1.それは平和な時




 春の陽射しは柔らかなものだとばかり思っていた。
 額に流れる汗を拭いながら、ヤムルは机に覆いかぶさるようにして目を閉じる。背中を汗が伝っていく感覚がして、なかなか眠ることができない。
 真剣に暑かった。
 ここはヤムルの通っている公立の高校。一年生の教室。クーラーはついているが、まだ早いと教師はそれを使うことを躊躇い、そのうえ風通しも最悪である。
 夏ももう少し後になれば、クーラーが起動するまでのために団扇の一つも持って来ようと思っていたのだが、まだ夏と言っても早いこの時期。さすがにそこまで準備は良くない。
 目を閉じたまま机の中を漁り、ノートの合間を縫うようにして目的のものを探す。柔らかい紙の間、固いプラスチックの手触りにノートからそれを引き抜いた。
 下敷きである。

「……あっつ……」

 顔を上げ、取り出した団扇代わりの下敷きで自らに風を送る。風の涼しさが先か、扇ぐことによりなお伝う汗が先か。
 何にしても、この異常な気象にうんざりしていた。
 後ろで束ね、顔の右側だけ垂らした長い水色に染められた髪も、汗で首筋や顔にへばり付いて気持ちが悪かった。

「あ、おい!ヤムル!ちょっと頼みがあんだけど」

 目を開けていることが億劫で、目を閉じたまま風を感じていたヤムルの耳に、聞き慣れた友人の声が入ってきた。
 クラスの中心人物とも言える彼とは、案外仲が良いのだ。

「なんだ」
「いやさ、ウチの姉貴がお前の兄貴に一目惚れしてて。ほら、同い年だからな。お前の兄貴、顔良いし。んで、紹介してくんねーかって言ってんだけど…」
「……あー」

 何しろ友達の頼みなので、ヤムルも悩んだ。……風を装った。このような話は今までに何度もあったが、ヤムルの答えはいつも同じだった。

「悪い。それは出来そうにないな。お前の頼みであっても」
「やっぱりそうか。だよなー。なんつったってお前の兄貴……」

 彼女いるし。
 そう、何故か人気のある一つ年上のヤムルの兄には、ちゃんと恋人がいた。兄と同い年で、家が隣の幼なじみである。もちろん、ヤムルとも。
 だがその兄は少し、困った癖を持っていることも事実で。

「そのわりには、やたら女子に声かけてるらしいよなー」

 不思議そうな友人の声に、ヤムルは苦笑いを禁じ得なかった。
 間違いなく、その通りだからである。
 ヤムルの一つ年上の兄、ヤミルには、可愛い彼女がいるにも関わらず……ナンパ癖があるのだ。
 そして声をかけるだけで立ち去るので、自分の元に紹介してくれと言ってくる女子が後を絶たない。
 いい加減にしてくれと思ってしまうことは、はたしてまずいことだろうか。
 第一に、彼の本命の彼女に失礼である。


ωωω


 学校が終わり、夕方だというのにうだるような暑さの中ヤムルは帰路についた。太陽は西の空でまだ嫌らしいほど明々と輝いている。
 夏の真中と錯覚しそうなほどの天気だ。
 最も、この天気も今日まで。明日からは、梅雨の始めらしく雨の予定である。
 暑いのは嫌いだが、雨も同じくらい嫌いなヤムルにとってはどっちもどっちではあったが。

「お、ヤムル!お前の方が早いのは珍しいな!」
「ヤミル兄……」

 かけられた声に振り向けば、見慣れた紅い髪の青年がこちらに向かって手を振っている。自信に溢れた黄色の目を笑みに歪める彼の名は、月之宮ヤミル。ヤムルと名も顔も似ているのは、彼がヤムルの一つ上の兄であるために他ならない。
 全ての才能において自分の上をいく、憎たらしい兄である。

「まだ学校に残ってたのか、ヤミル兄。本当に珍しい」

 授業が終わればすぐ、彼は家路につくのが日課であった。それに比べ、ヤムルは部活、弓道部に入っている。時計を見ていないが、かなり遅い時刻であることは間違いないだろう。
 なのにヤミルは自分の後ろからやって来た。まだ高校に通い始めて日は浅いが、初めての経験である。
 そんな弟の心情を知ってか知らずか、ヤミルは何故か機嫌良さげににっこりと笑った。

「学校に残ってたわけじゃねぇよ。迎えに行ってたんだ」

 そう言ってさっと横にずれたヤミルの向こう側に現れたのは、真っ白で先の青い長髪にブレザーの制服を着込んだ少女。隣の家に住む、ヤムルより一つ年上の幼なじみであり、ヤミルの恋人の少女、蒼倉ツクヨである。
 彼女はにこりと笑うと軽く頭を下げてきた。

「こんにちはですー、ムーくん。ルーくんは私を迎えに来てくれてたんです。怒らないでやってくださいー」

 どこか間延びした敬語は、彼女の独特の喋り方であった。初めて耳にすれば奇妙かもしれないが、幼い頃から聞いていれば流石に慣れる。
 それどころか、愛らしささえ覚えるから不思議だ。

「……ツクヨさんが言わなくても、怒りはしないよ。ただ不思議に思っただけだから……」

 じっと見つめてくるツクヨから思わず目を背け、ヤムルはいつもなら考えられないほど小さな声で呟いた。別に、ツクヨが苦手なわけではない。
 むしろ、その逆だから困るのだ。兄の恋人に持って良い感情では、なかったから。
 二人の様子を見守っていたヤミルは、ヤムルの想いを知ってか知らずか、面白げな表情で笑い声をあげた。

「何うだうだ言ってんだ二人とも。とりあえず、家に帰るぞ。腹も減ったしな」

 そう言って、ヤミルはツクヨの手を引く。その動作があまりにも自然で、ヤムルは思わず目を背けた。






2011/07/14