それは、色を無くしたような日々の始まりだった。
笑顔が消えた家の中。ノノはいつものように、朝食を作るために台所に立っていた。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、いまある最大の音だった。
あの日から、全てが狂ってしまった。
あの日。隣の家に住む幼馴染であり、兄、ヤミルの恋人であった少女、蒼倉ツクヨがその命を落とした日から。
亡くなった彼女の葬式が終わって、すでに半月もの日々が流れていた。驚くほどあっという間に、時は過ぎて行くのだと、思い知らされた気がした。世界の時間に、彼女だけが取り残されてしまった。
ノノの中でのツクヨは、事故があった日の前日で止まっている。
十月二十一日は、ノノの誕生日だったけれど、誰も『誕生日』の言葉さえ発さなかった。いや、発せなかった。ツクヨが事故にあったのは、ヤミルの誕生日の前日。彼の誕生日プレゼントを仕上げるために彼女は家を出て、命を失ったのだから。
ヤミルはツクヨの葬式が行われたあの日以来、家から出ることさえなくなってしまった。食事でさえ、ノノや二番目の兄、ヤムルが言わないと摂らない始末。そんな彼を見ていると、おのずとしっかりしなくてはいけない、と思うようになった。ノノ自身も、そして一つ年上の兄、ヤムルもそうだろう。
ヤミルはあの日から、口調を変えた。態度を変えた。敬語で、大人しく、常に不安そうな。まるで、ツクヨのいなくなった穴を埋めるように。
そして反対に、ヤムルは社交的になった気がする。頻繁に街に出ては女の子に声をかけるようになった。誰かを捜すように。おそらくは、ツクヨに代わる誰かを。
そんな中で、ノノだけはいつも通りだった。いや、いつも通りだと、思っていた。
「……ノノ様、鏡をご覧になられましたか?」
唐突に、後ろから声をかけられて振り返る。そこにいたのは、ノノとさほど変わらない身長の、緑色の髪をした少女。左の耳の上に真っ赤な椿の花を飾るその少女は、驚いたような、悲しいような顔でノノを見ていた。
「おはよう、モクちゃん!鏡?そういえば見てないかもー。今日、寝坊しちゃって、顔を洗う時も慌ててたからー」
少女の名は、木月華。ヤミルの式神であり、古椿の精という妖である。木々を操り、またその美しさで人を誑かす妖。けれど彼女はとても真面目で、ヤミルを守ることを第一と考える、式神の鏡のような少女だった。
「御髪の色が……落ちておりまする……」
「……え?」
言われた意味が分からず、ノノは口をぽかんとあける。危うく、手にしていた豆腐を切りそこなうところだった。味噌汁に入れるのだ。
髪の色が落ちている、とはどういうことだろうか。
「……ちょっと鏡見て来るね。モクちゃん、火を見てて……」
「火!?わたくしに火を見ていろと仰るのでございまするか!?」
「……えーっと、セツくーん。お願いしていいかなー?」
木月華は、木の妖のため、火を極端に嫌う。仕方なくノノは足元を見遣り、自らの式神を呼んだ。
ノノの影の中から、音もなくすーっと彼は姿を現す。
ノノの式神である青年、雪月華である。彼はノノの前に立つとこくりと頷き、火の前に立った。
水、主に氷を使う彼は、火などなんとも思っていないのだ。
「ごめんねセツくん。洗面所に行ってくるねー」
言い、ノノは式神の二人を残して台所を後にする。板張りの廊下を歩いて行き洗面所に向かう。
おそるおそる、と言った体でノノは鏡をのぞき込んだ。
そこには、いつも通りの自分自身の姿。そう、思ったのだけれど。
「……髪が……!」
鏡に映ったノノの髪は、昨日までの真っ黒なそれではなかった。
色を失ったような、灰色の髪。それだけで、今の自分がどれほど落ち込んでいるのか、疲れているのかが見てとれる。
「……何で、いなくなっちゃったのかな……」
思わずぽろりとこぼれた言葉は、おそらくはノノの心の底からの本音であった。ノノの、そしておそらくこの家に住む全ての者の、本音であった。
ωωω
「ノノ様の髪……あれはツクヨ様が事故死したことによるショックから……でございましょうね……」
火にかけたみそ汁をかきまぜる雪月華を少し離れた所で見遣りながら、木月華は複雑な気持ちと共に口を開いた。人間ではない木月華だが、この家の者たちの空気の変化には気付かないわけもなかった。その中にはもちろん、自らの主人であるヤミルも入っている。
「……人間は脆い。それは分かり切ったことだったが……こうも簡単に壊れるのだな」
「本当に……その通りでございまする……」
古椿の霊である木月華と、ケルピーという妖精とペガサスの混血である雪月華。よほどのことがない限り、果てしない命を生き続ける二人は、たまに忘れてしまうのだ。人間の脆さを。
普段は、自分たちより余程強く見えるからかもしれない。その精神という意味で。
「腹減ったぁー!なぁ、朝飯まだか!?」
しんみりとした二人の空気を知ってか知らずか、先程ノノが出て言った扉から褐色の肌に赤い長髪の男が入って来た。長い睫毛に真っ黒な目、加えてその耳は人間にしては異常に尖っている上、その耳の上からは、ぐにゃりと曲がった黒い角が生えていた。
彼の名前は、風月華という。ヤムルの使い魔として彼についている、風の悪魔だった。
悪魔の中でも、第一級という最も高い位にいる彼は、いかんせん……頭が弱かった。
「おっ!みそ汁じゃねぇかっ!」
「……貴様という奴は……今のこの家の状況が分かっておられるのか!?」
「……ふぅ」
空気を読まない風月華の言動に、木月華は怒りを堪えきれない様子で怒鳴り声をあげ、雪月華は深々とため息をついた。
そんな二人を見て、風月華は反対に眉をしかめて見せる。彼のそんな表情は、珍しかった。
「分かってねぇのはお前らの方だろ」
「……え?」
微かに怒気さえも含んだ言葉に、二人は驚いたようにみそ汁を味見している風月華を見た。
「ヤミルはショックで性格も口調も変わっちまった。ヤムルは性格こそほとんど変わってねぇが、無理して外向的なフリしてヤミルの代わりを努めようとしてやがる。ノノに至っちゃ……さっき洗面所にいるのがちらっと見えたんだが……あの髪……」
口に運んでいたお玉杓子を鍋に戻しながら、彼には不似合いな痛ましげな表情を浮かべた。
「あいつらが落ち込んでるのはいくらオレが馬鹿でも分かるぜ?だけどなぁ、それでオレたちまで暗くなってどうすんだよ。こういう時こそ、オレたちが明るく振る舞ってあいつらを助けなきゃならねぇだろ?一緒になって落ち込んでちゃ、何のための使い魔か分かりゃしねぇ」
吐き捨てるような言葉は、彼の本心。契約者を思いやるがゆえの言葉に違いなかった。
風月華の言いたいことは分かる。それが正しいことも理解できた。けれど。
木月華は目を細めて顔を背ける。今の自分の主人に対して、今まで通りの態度で接することができるだろうか。あれほどに落ち込み、昔の面影さえ消え始めた主人に対して。
「……貴方に諭されるなんて、世も末でございまする……」
自分の頭の中で答えの出なかった疑問を振り払うように、木月華はそれだけ言って頭を振った。
2011/11/14