7.新しく生きる




 見慣れた薄いクリーム色の二階建ての家。今までも、そしてこれからも自分が帰るべきだった、場所。

「……本当に、もう良いのか?」

 表札に『蒼倉』と書かれた家の前の路上で、ただ家を眺めていたツクヨは、背後からかけられた声にゆっくりと振り向いた。
 耳に心地良い、甘く低い美声の持ち主は、その姿もまた甘く、この世のものとは思えない程に美しかった。
 肩よりも少し伸びた藍色に透ける黒の髪に、すらりとした体躯の高い身長。顔立ちは形容するなら、まるで刃のように鋭く整っていて、すっと通った鼻筋に、長くて多い、髪と同じ色の睫毛。薄い唇は柔らかく閉じられており、藍色の瞳には光の宿る隙もなかった。膝よりも高い位置まである長い黒のブーツに、白いズボン、藍色のベスト、そして左胸に白い薔薇の花を飾った黒いマントという出で立ちはどこか、中世ヨーロッパの騎士の姿を連想させる。
 その上、やはりというべきか、彼には人ではない証があった。その背中に生えた、真っ黒な鳥の翼。彼は冥界からの使い、堕天使であった。
 ツクヨは数日間共にいても今だに慣れることのできない美貌の青年の目を見ながら、一つ微笑んでこくりと頷いた。

「良いのですー。これ以上、私のことを引き摺るよりは、さっさと私がこの場から立ち去ってしまった方が皆のためですー」

 それは、彼から最初にこの話を持ちかけられた時にはすでに、決めていたこと。会いたいのは自分であり、これは自分の我が儘。そして、会ってしまって思いを引き摺るのは、自分だけではなく、相手もまた同じ。
 目の前の堕天使は、藍色の玉飾りを二つつけた、一房の髪を耳にかけながら、少し顔を傾ける。人間とは違う、長い耳についた藍色のピアスが、陽光を受けてきらりと光った。

「あと一人くらい、会わせることは可能だ。会いたい者がいるんじゃないのか」

 代償は転生後、私の手足となることで手を打とう。
 そう、青年は顔に似合わぬ皮肉げな笑みを浮かべる。
 けれどツクヨはしっかりと理解していた。彼がただ、自分のことを心配して言ってくれているのだと。転生した後は、今の記憶など欠片も残るはずはなく、ここでの約束事など無意味なものとなるのだから。
 転生した後の自分はもう、蒼倉ツクヨではない別の誰かなのだから。
 ツクヨは再び笑い、首を横に振った。

「……もし彼に会ったら、きっと私の方がここを離れたくなくなるのですー……。彼は強いから、一度お別れを言えば前を向いて行ってしまう……。それが悲しいのです……」

 自分のことなど忘れて欲しいと言いながら、胸のうちのどこかで、せめてもう少しの間だけでも自分がいて欲しいと願っていた。だからこそ、別れを告げたくなかった。
 目の前の青年は、途端にクスクスと笑い出す。面白そうで、それでいて悲しそうな笑みだった。

「貴女はひどく残酷なのだな。貴女の恋人はこの先しばらく、『自分のせいで恋人を死なせた』と思い、苦しむことになるだろう。それを分かっていて、会わないというのだから」
「……」

 返す言葉もなかった。おそらくは、その通りだったから。
 自分を忘れないで欲しい。せめて、彼に再び愛しいと思える人ができるまで。
 ツクヨは一つ目を閉じ、俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。目を開けば、自分を冥界へと連れて行く堕天使の美しい顔。ツクヨが真っ直ぐに見つめれば、彼は少し驚いたように笑みを消した。
 それがどこかおかしくて、反対にツクヨは笑みを浮かべる。
 季節は冬。空は透き通る快晴。

「……お隣さんは陰陽師や悪魔祓いの家系です。私がここにいれば、祓われてしまいますー。見つからないうちに行きましょう。……冥界へ」

 そしてきっと、自分はまたここを訪れるだろう。転生して、何も知らない自分となって。
 美貌の堕天使はふっと小さな笑みをこぼすと、白い手袋に包まれた手を差し出す。ツクヨは躊躇うことなく、その手を掴んだ。


ωωω



 ぶるり、と一つ身震いをする。真っ暗な闇の中、『彼女』はその『手』を顔に運んだ。『目』、『鼻』、『口』。いつもと変わらないそれら。顔の横に『手』をやればふさふさした『耳』。
 そこで『彼女』はふと動きを止める。
 何か、『耳』の感触がおかしい。
 途端、背筋がぞわりとする奇妙な感覚に、ぶるりと身震いする。と、急速に地面が近くなり、視界が狭くなる。
 意味も分からず、取りあえずというように座り込み、『後ろ脚』で頭の上にある『耳』の後ろを掻く。これも少し、落ち着かない。

「……おいで」

 ぴくり、と頭の上の『耳』が揺れる。誰かが自分を呼んでいる。
 立ち上がり、『彼女』は『四つの脚』で駆ける。自分を呼んでいる、誰かの元へ行くために。
 暗い世界は徐々に白く明るくなっていく。一直線に『彼女』が見据えた先には、椅子に座った髪の長い人間が一人、『彼女』を呼んでいた。黒い、『脚』をとられそうなつるつるした地面の上を、『彼女』はただ走り、人間の足元まで来てその『尾』を振った。
 人間は嬉しそうに目元を和ませる。

「良い子だ。……まだその姿でいたのか?……転生前の自分が分かるような記憶は一切残っていないはずだが、生きるのに必要な最低限の記憶はあるはず……。人の姿の方が慣れているだろうに」

 優しい声音で言われて、『彼女』は首を傾げる。人間の姿の方が慣れている。そうだろうか。
 けれど『彼女』は心のどこかで、この人間の言うことは正しいと理解していた。いや、言っていることが正しいのかは分からなかったが、彼の言うことが『彼女』にとって正しいことなのだった。
 ぶるり、と再び身震いをする。
 すると、奇妙なことが起きた。
 先ほどまで黒と白で構成されていた世界は、実は様々な色合いを持って彩られていることが分かったのだ。
 白い光に包まれていると思った世界はどこか仄かに赤く、『彼女』が座っている場所は黒ではなく赤茶色のつるつるした石畳だった。座っているにも関わらず少し高くなった視線の先にいた人間は、おそらく『男性』で、『青年』なのだと理解する。光を受けたところが赤く染まる黒く長い髪は、顔の前の一房だけが深い群青。瞳もまた同じ群青色で、柔和な顔立ちからは彼の人の良さが覗えた。もっとも、無表情なままだったが。
 ふと、彼の顔に少しだけ感情が浮かぶ。それはおそらく、驚き。

「耳と尾は消えないか。……それを消すのは案外面倒だと、あいつも言っていたしな。似合っているから、構わないだろう」

 言いながら、青年は『彼女』の頭を撫でる。『彼女』はそれが嬉しくて、その目を閉じた。が、青年の言葉が気になり、目を開いて自分の背後を振り返る。そこには青年が言った通り、真っ白で先の毛だけが蒼い獣の『尾』があった。顔の横に『手』を伸ばしてみれば、そこにもやはりふさふさした『耳』があり、奇妙な感じだった。

「……お前は『ヘルハウンド』。犬の魔物だ」

 青年はそう言って、『彼女』の頭に乗せていた手を自らの組んだ足の上に移動させる。
 その動作を眺めながら、『彼女』は口を開いて言ってみた。

「……犬の、魔物……ヘルハウンド……」

 少し高めのその声は、すぐに耳に馴染んだ。どうやらこれが『彼女』の『声』らしい。それに、ヘルハウンドが何かは分からなかったが、犬というのは理解できた。四つ脚の獣である。
 そんな風に少しずつ理解していたら、ふいに後ろの方で、ばさり、という音がした。
 何の音か分からずに振り返れば、そこにもまた一人の人間がいた。年はおそらく、椅子に座る青年よりも若く見える。
 と、『彼女』は小さく息を漏らす。その人は、人間ではないと分かったからだ。その人の背中には、人間にはあるはずのない、真っ黒な鳥の翼が生えていた。その翼をもう一度羽ばたかせる。そうして気付いた。先程のばさり、という音はどうやらこの翼が出した音だったらしい。

「……サイラル。名前は考えついたか」

 椅子に座った青年は、翼を持った人にそう呼びかけた。どうやらサイラル、というのがその人の名前らしい。

「……一応はできた。……が、気に入るかどうかは知らん」

 そう言って口の端だけを持ち上げるサイラルは、『彼女』から見ても、とても綺麗だった。おそらくは男の人で、何がどう、とは上手く言えなかったのだが、ただ純粋に綺麗だと思った。
 と、サイラルはふいに『彼女』の方を見、少し驚いたような顔をする。はぁ、と彼が疲れたような息を吐いたかと思うと、背中の翼をばさりと音を立てて羽ばたかせ、次の瞬間にはその翼は跡形も無く消えていた。
 『彼女』は何が起こったのか分からずに、きょとんとした顔をサイラルの方を見やる。彼は、そんな『彼女』の困惑を余所に、かつかつという足音と共に、『彼女』のすぐ後ろまでやって来たかと思うと、ぱさり、と音を立てて自らが身につけていたマントを『彼女』の肩にかけた。

「……姿形は全く変わっていない、か。転生したてとはいえ、裸の娘を傍らに、しかも床の上に置くのはどうかと思うが」

 少し怒ったようにサイラルは言うが、青年はふいと顔を背けただけだった。どうやらサイラルの小言には慣れているようだ。それに対してチッとサイラルが小さく舌打ちをする。明らかに聞こえているだろうに、聞こえていないふりをする青年は何食わぬ顔で、サイラルの方を見据えた。

「やはり、相当気に入っているのではないか?サイラル。お前にこの子を預けても良いんだぞ。わざわざ他の世界から連れて帰って来る程だからな」
「……何も分かっていないガキのお守りなど、面倒なだけだ」

 青年の言葉に、サイラル顔を背ける。
 けれど『彼女』には、二人が何を言っているのかが上手く理解できなかった。
 軽く首を傾げ、『彼女』は青年の服の裾を掴んで軽く引っ張る。はっとしたように、青年は『彼女』を見た。サイラルもまた、驚いたような顔を『彼女』に向ける。

「悪い、お前の話なのにお前のことを除け者にしてしまったな。お前に名前を授けよう。……サイラル」

 青年が言えば、サイラルははっとしたように一度『彼女』から目を離す。一つ息を吐いて再び『彼女』に向き直った。

「……貴女の名前は、ブルミュエナ=ナイト。ブルムだ」
「……ブルミュエナ……ナイト……。ブルム……?」

 サイラルが言った通りに繰り返し呟けば、サイラルがこくりと頷く。『彼女』はそのブルミュエナという言葉こそが、自分の名だとゆっくりと感じられた。
 私の名前は、ブルミュエナ=ナイト。
 何度も何度も、繰り返し呟いていると、頭をまた一つ撫でられる。顔を上げれば、青年は楽しそうに笑っていた。ブルミュエナが初めて見る、彼の笑顔だった。

「良い名をもらったな、ブルム。……自己紹介が遅れた。こっちの堕天使の名は、サイラル=ルーイ。私の部下で、お前をここに連れて来た。そして私の名前は、ハデス。冥界の王、ハデスだ」

 ハデスと、サイラル。二つの名を、ブルミュエナは繰り返して呟く。

「……さて、うるさいやつもいることだし、お前も服を着て来ると良い。サイラル、連れて行ってやれ」
「……何で私が」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、サイラルはブルミュエナにその手を差し出した。マントが落ちないように片手で押さえながら、開いた手をサイラルの手に重ねる。すると考えていた以上に強い力で、サイラルはブルミュエナを引っ張り起こした。たまらず、ブルミュエナは前のめりになりサイラルの方へ一歩を踏み出す。
 そして計らずも、この瞬間がブルミュエナにとっての最初の一歩だった。






2012/1/14