精霊王と偽りの娘


 第一章



 目を閉じ、意識を集中させ、ただ手を伸ばす。その手を左右に揺らせばそこには、いつもはないはずの、何か布状の物がある感覚があった。レース状のカーテンに触れている時の感覚と似ている。さらさらと、ただ撫ぜるように動かしていけば、ある一瞬だけ布の感覚が見つからない場所。まるで、布が裂けているようなぽっかりとした穴。それは通称、『歪(ひず)み』と呼ばれるもの。小さく、通り抜けるには不完全な『扉』。
 クラキオはその歪みの中に手を入れる。そこを流れる空気を感じれば、それはいつか自分が過ごした懐かしい空気だった。遠い遠い、昔に感じていた空気。
 歪みの中から手を抜き、歪みの淵をなぞるように辿る。何度も、何度も。
 ―――……閉じろ。
 頭の中でそう念じれば、次第にその歪みは小さくなっていく。小さく、小さく、ついにはその歪みも消え、ただ布状の物の感覚が残るだけだった。
 クラキオはそこでゆっくりと真っ黒な目を開く。すうと息を吸い込めば、柔らかく、青々しい香りがした。目の前には、ただ草原が広がるばかり。布のような物など欠片も見当たらず、伸ばしたままだった手の先にもまた、そのような物の感覚などなかった。

「……これでこの一帯の歪みは全て閉じたはず……だが……」

 ふうと息を吐き、軽く頭を押さえながらクラキオは呟いた。ほんの少し、頭が痛む。
 今修正した歪みで十と三つ。だがそれはただの歪みに留まり、入って来ることが出来るほどの扉は存在しなかった。
 精霊の住むこの世界、精霊界に及ぶ扉は一つも。

「……妖(あやかし)の真意が分からない……」

 扉とも言えぬ歪みを大量に開けたところで、こちらの世界に影響などないことは分かりきっているだろうに。

「クラキオ様が分からないと仰るなら、この精霊界で妖の考えが分かる者などおりませんの」

 唐突に聞こえた声は、暖かい風を纏って現れた。振り返れば、掌ほどの大きさの声の主がクラキオの鼻先まで、その薄い蜻蛉の羽で飛んでくる。羽が起こす風もやはり、暖かい春風。

「……チェリー。屋敷周辺の歪みの修正は終わったか?」

 こちらも今終わったところだと付け加えながら、クラキオは少し疲れたような声色で訊ねた。
 チェリーと呼ばれたその少女は、十六・七歳くらいに見える。ふわふわとした桃色の髪を自ら起こした風に揺らし、これもまた濃い桃色のドレスがひらひらと舞っていた。
 彼女はこの世界に住む、桜の木の精霊である。

「もちろんですの!これで今日の歪みの修正は終了ですわ!」

 嬉しそうに言う少女姿の精霊に、クラキオはくすりと笑った。

「……そうだな。今日の修正の仕事は終わった。……が、明日もまた歪みが出来ているだろうな。このところ、毎日毎日……」

 言い、クラキオは再び息を吐く。妖の真意さえ分かれば対応のしようもあるのだが、それが分からない以上、一つ一つ歪みを修正して妖が入って来ることのないようにしなければならない。
 ふいに、チェリーのいる方から冷たい風が流れてくる。彼女は桜の木の精霊。春を告げる存在であり、また春風の化身である。彼女の纏う風は、彼女の意思に関係なく彼女の感情を伝える。冷たい風は恐らく、困惑や疲労。

「……こうなったらいっそのこと、妖がこちらに入ってきてくだされば良いのに……。そうすればわたくしたちで一網打尽にしてその真意を……。そう甘くはないですわよね……。」

 疲れたように呟くチェリーの考えは恐らく、この精霊界の精霊たち、特に現在クラキオと共に歪みの修正に当たっている者たちの考えだろう。歪みの修正は思った以上に疲れるのだ。特にチェリーたちのような小精霊たちならなおのことだろう。
 クラキオはその鋭く尖った黒い爪に気を配りながら、チェリーの頭を撫でてやった。

「……確かに、そう甘くはないな。だが、一匹でもこちらに入って来た場合はそうしよう。さあ、もう仕事も終わりだ。お前は帰って、一眠りすると良い」

 笑みの形に顔を歪めて言えば、チェリーはクラキオに不思議そうな顔を向けた。

「……クラキオ様は、どうされますの?これから。お屋敷に戻って一眠り、ですの?」

 言われて、クラキオは今日の予定を思い浮かべる。今日は確か、いつもより一つだけ仕事が多かったはずだ。それも、大切な大切な、仕事。

「……いや、これから屋敷に戻って身なりを整えたら、人間界に行くつもりだ。リジマールド男爵の茶会に呼ばれている」

 それがどうかしたか、と訊ねれば、チェリーは少し迷うように視線をさまよわせ、冷たい風をほんの少し生み出した後、やはり困ったように訊ねた。

「……クラキオ様、ちゃんと夜は眠っておられますの?……日に日に隈が濃くなって……。わたくしは心配ですわ……」

 言われて、反射的にクラキオは手を目許に持っていく。だが隈が出来ているかどうかなんて、触れて分かるはずもなく、ゆっくりと目を閉じるとくつりと笑った。
 確かに、ここ数日間クラキオは一睡もしていない。夜という時間帯は、精霊が動きにくく、反対に妖が動きやすい。そのため、いつ妖が完全な扉を開いてこちらに入って来ても良いように、クラキオは夜な夜な精霊界を見回りしていた。
 けれどそれを辛いと感じることはない。むしろ、クラキオ自身が眠ることを拒否していたから。
 目を閉じれば毎度毎度訪れる悪夢。それがただの夢であれば、まだ救いようもあったろうにクラキオの見る悪夢は、全て過去に起きた悲惨な出来事ばかり。全身から冷や汗をかき、夢の中の誰かの悲鳴や自分の叫び声で、目を覚ますこと数度。眠らないよりも、疲労が濃くなってしまう。
 そんな状態で、誰が目を閉じられるというのか。

「……安心してくれ、男爵邸から帰れば、少し眠るつもりだ。いつもあの方の茶会はそれほど時間もかからないから。それに、自分の体調はやはり自分が一番分かっている。今のところ好調だ。だからチェリーもゆっくりと休んで、また明日、だな」

 「心配せずとも、無理はしない性分だ」と笑って言えば、チェリーは不安そうながらも笑い、こくりと頷いた。

「ならば良いですわ。お辛い時、ご用がある時はいつでもわたくしを呼んでくださいね。すぐに飛んできますの」
「……ああ、分かった」

 くるりと回って飛んで行くチェリーを、小さな溜息と共に見送っていたら、何を思い出したのか彼女は再びくるりと回ると、声を上げて言い放った。

「クラキオ様、その隈はある意味お似合いですわ。人間界で言う、宗教の方みたい。お化粧したみたいですわ」
「…………」

 くすくすと笑って言い、飛んでいくチェリーを見ながら、クラキオはひくりとその口の端を引きつらせた。











2012/08/30