精霊王と偽りの娘






 人間の住む世界、人間界。そのとある街中を、金色の長髪の少女が走っていた。青くしつらえの良いドレスを振り乱し、その白い肌に玉のような汗を光らせて。その場に通りかかった人は皆、一様に不思議そうな表情で振り返る。
 そこらの一般市民が同じように駆けまわっていても、誰も何とも思わないだろうが、その少女のようにどう見ても階級が上の者は基本、自らの足で歩いたりしないからだ。走るなど言語道断。使うのは通常、馬車である。
 また、その他にも視線の理由はあった。その少女の容姿、である。小さめの丸い顔に並ぶは大きな金色の瞳。それを縁どるのは、これもまた金色の長い睫毛。鼻は女性にしては少し高めであり、小ぶりな唇は可愛らしい桜色。十七・八歳程度だろうか、まるで人形のような少女だった。
 その少女は名を、ルミアと言う。

(兄さんに会わないと!)

 息を切らしながら、ルミアはそう頭の中で念じた。
 彼女の兄が唐突に出してきた手紙。そこに書かれていたのは、『嫁げ』というものだ。その相手が、彼女の一族と所縁のある者だとも書いてあった。けれど。
 ルミアはその手紙を読んだ瞬間、自分の住んでいる家から飛び出した。
 兄は忘れているのかもしれない。そう、ルミアは思わずにはいられなかった。『ある人』がどのような人でも、自分には嫁ぐことのできない理由があった。それを。

(……兄さん……あの年でボケたのかしら?)

 なぜ自分が人里離れた山奥で過ごしているか。誰とも接触せず、たった一人の執事と共に。その理由をあの兄は、忘れてしまったと言うのか。

(……でも……会えば思い出す……はず)

 思い出さないはずが、ない。ルミアの今の姿、それを見れば。
 動き続ける足が、いつもの何倍も重く感じる。息を吸っているはずなのに、意識が朦朧としてくる。やはり、馬車を使った方が良かったのだろうか。そう思いながらも、ルミアはただただ進んだ。
 縁談がまとまる前に、兄に会わなければ。何としても。

(そのために……こんな物まで持ち出したんだから)

 鎖骨の間辺りに触れれば、服の下にある物の存在が分かった。小さく、ごつごつとしたそれは、取り出して見ると雫型の物だと分かるだろう。雫型の、美しい水色の宝石のついた、ネックレス。これはルミアの一族に代々伝わる物。もちろん、ただ美しいだけの物ではなかった。

(……後でミーアに怒られる、でしょうけどね)

 自分の世話をするためにたった一人でルミアの傍にいる、専属の執事。彼はそのネックレスの特性ゆえ、ルミアにネックレスを使用することを禁じていた。それなのに。
 今手元には、それがある。
 それも、兄のもとに行くことをミーアに気付かれないようにするために。

(……何でか……ミーアも兄さんに賛成してたんだもの……)

 二人して、頭がどうかしたのではないかと本気で疑った。あの二人は、自分のことのことをしっかり理解してくれていたはずなのに。
 いっそのこと嫁ぎ先の『ある人』の部分に『ミーア』と書かれていた方が納得がいくというものだ。彼ならば、自分と結婚するとしても、それほど問題はないだろう。素直に喜べるかと聞かれれば、そうでもないが。
 そしてその『ある人』の部分に書かれていたのは、今まで一度も聞いたことのない名前だった。

(……どんな名前だったかしら……)

 それさえも忘れてしまったけれど。
 それほどに、ルミアにとって結婚話は縁のあってはならないものなのだ。自分にとっても、相手の人にとっても。
 きっとその双方が、不幸になってしまうから。

(……あれ……何、この……臭い……)

 ふいに、ルミアの鼻がある一つの臭いを嗅ぎとった。
 疲れすぎたのだろうか。こんな街中だというのに、鼻が嗅ぎとったのは獣の臭い。それも、かすかに鉄錆の臭いが混ざった、吐き気を催すような。

(……うそ……!こんな所に……!?)

 ルミアは走り出してから初めて、足を止めた。相変わらず、獣の臭いが鼻をつく。だがこれは、ただの獣の臭いではない。鉄錆の、血の臭いを含んでいるのがその証拠。これは。
 ルミアは意を決して後ろを振り返った。
 いつの間にか、周囲の人通りは、絶えていた。











2012/09/04